治療の段階において、大きな山場を乗り越えた感じがありますので感想文という形で、文章に致します。治療には関係のない内容もあるかとは存じますが、素直に書き出したいとの思いから書かせて頂きます。
主治医をはじめ病院のみなさま、叱咤激励を絶えず送ってくれている朋友、最大の勇気と忍耐と愛で励ましてくれている妻 感謝
僕には2歳年下の弟がいる。幼少の頃は手をつないで遊んでいた記憶が薄っすらあるし、肩を寄せ合って仲良く写っている写真もある。
弟は活発で行動的だったと思う。元気で、いい奴で、なにより素直だ。
そんな弟と僕は、別々の幼稚園に通っていた。兄弟なのになぜそうなったのかは知らない。そういう風になっていた。
ある日、幼稚園の散歩で、川沿いの高台を保母さんと弟たちは歩いていた。向こうからダンプが来たので、道路わきにみんなが寄った。
隙間があったそうだ。ガードレールとガードレールの隙間から、弟は10mほど下の川原に頭から転落した。
病院の医師からは、最悪を覚悟するようにと両親に告げられていた。
僕は家に居た。ばあちゃんと一緒に居た。お父さんとお母さんが血相を変えて慌てふためいていること、僕が呼んでも答えなかったことを覚えている。
ほぼ1週間後、弟は奇跡的に命をつなぎとめた。
それから僕らは小学生になったのだが、まったく一緒に暮らしているという感覚がなかった。両親は商売という仕事から帰りが遅かった。夕食はそこにおいてあった。
毎日毎日がそうではなかったのだろうけれど、ほとんどがそうだったのだろうと思う。
ひとりの食事は、とにかく寂しかった。
弟は、ひきつけを起こすようになっていた。パタリと倒れて、意識をなくし痙攣する。
両親からは弟の頭を叩かないように、激しい動きをさせないように注意された。弟は僕と違うのだなと思った。遊びたくても遊べなかった。もどかしかった。弟もそうだったのかもしれない。そしてまた、ひどく寂しかった。
一度だけ、弟のことが理由で弟の同級生とケンカをした。バカにされてイジメにあっていたからだ。ものすごく頭にきた。自分の事以上に頭にきた。こんなにも懸命に生きている弟に、イジメという人災が降りかかるなど許せなかった。この怒りは、僕らが兄弟なのだなと実感させてもくれた。
弟が倒れた。いつもと様子が違う。顔がどんどん蒼白していく。家に居た僕は、両親に知らせた。救急車が呼ばれて、弟はどこかへ運ばれていった。僕は家にひとり残された。怖かった。僕もいつか弟のようになるのではないかと、怖くてたまらなかった。本当は誰かがそばに居たのかもしれないが、よく覚えていない。とにかく、僕は弟のようになるのだと考えるようになった。兄弟だからそうなるのだと考えるようになった。
母の心配性は通常ではなかったと思う。弟のことがあったから仕方のないことと思っていたが、今思えば些細な事で病院に僕を連れて行っていたように思う。
「大丈夫ね?」「病院行こうか?」という言葉を繰り返し言っていたと思う。
今思えば「大丈夫ね?」の裏側には、「僕は大丈夫じゃない」というメッセージも受け取っていたのではなかろうか。
僕が小学校の頃、母の実家で母方の親戚などが集まり、近くの川原で焼肉をしていた。(その川原は弟が転落した川原なのだが。)すると、僕は急に息苦しさを覚えた。弟のこともあったので、救急車がもれなく呼ばれた。
運びこまれた病院では、風邪気味だった咽に熱い肉を食べたので、咽が腫れた結果、若干の息苦しさを感じたのだろうと言われた。しかし僕の咽の違和感は消え去ることはなく、ついには食べ物が飲み込めなくなってしまった。
またしても訪れた病院では、自律神経失調症と診断され特別何かをされた記憶もない。この頃から母は、特定の神社へ頼るようになっていった。毎朝毎夕にお経を繰返し唱えなさいといったようなことを言われたようで、熱心に励んでいた。
ついには、祖父が他所から持ってきた庭の鬼瓦が原因だとして、母とふたりで川へ鬼瓦を流しに行った。遠くにあるときは大きさをあまり感じないが、手に取ると異様にでかい鬼瓦だった。それを母と小学生の僕とで軽トラックに積んで、川原で下ろして、川に流した。手を合わせたが、何とつぶやいたかは覚えていない。それからは、僕の咽の違和感もなくなっていた。
このことから母はより熱心になり、僕は何かあると、何かが悪さしているのではないかと臆病になった。
しかし、中学への進学や高校への受験などが矢継ぎ早に訪れて、弟のことや悪さをする何かのことは、徐々に考えないようになっていった。
それから僕は、高専へと進学した。
高専4年生の時に訪れた電気系の会社説明会で、会社の地下設備を見学していたときに息苦しさを覚えた。過呼吸になり、このまま死んでしまうのではないかという不安に襲われた。
ほとんど毎朝、強烈な腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだ。腹痛に耐えていると、血の気が引いて意識が遠くなる感覚があった。そのことで、死んでしまうのではないかという不安に襲われた。
そのまま保健室へ行き、保健の先生のアドバイスで病院を受診することになる。
病院への通院を開始した。
詳細の記憶はないが、とりわけ母のこと、弟のことを懸命に話していたように思う。母と弟との事が解決できれば、僕は治ると考えていた。
この頃に処方された薬は、次の通りだったと思う。
デパス0.5mg1日3回、ドグマチールを朝晩2回、ソラナックスを頓服
僕の状態は安定していたように思う。(安定していたとは、パニック発作の数が少ないという意味だったと思う。先生が「落ち着いていますね」とか「安定していますね」などと言っていたような気がするので、そのまま「安定」という表現を使う)
通院の甲斐あって、東京で就職試験を受験できたし、内定ももらうことができた。
薬は変わらず続けていたが、ほぼ治ったと思った。
僕が就職した会社は、神奈川県で新人研修を3ヶ月間行う。その後は東京の拠点で働くことになると聞いていた。
今思えば、満員電車や受講時間などパニック発作が起きてもよさそうな状況だったように思えるが、不思議とそれらは気にならなかった。
当時、最も心配していたことは、「夜に熟睡できるかどうか」「薬がなくなって発作がでたら、どうしようか」ということであったと思う。
朝起きて体がだるいことや、気分がすぐれないことは「夜に熟睡できていないからだ」と考えるようになっていた。しかし、早く就寝していたかといえば、そうではない。なぜか、深夜になると頭がさえてくる。結局は、2時頃まで起きていたのが常だったと思う。
それなのに、朝起きられないのは、自分の体が変だからだと考えていた。その事で、苦労や苦痛に耐えられないのではないかといった、軟弱な心の傾向を許していたと思う。
この寮で、天真爛漫の同期と出会うことになった。彼と過ごしていると「何事も、この位でいいのか」と感じることがあった。また、僕のネガティブな質問や意見にも根気よく対応してくれた。後に「何故、あんなによくしてくれたのか」と本人に尋ねたが、「何かをしたつもりもない。友達だからな。そんなことより、芋焼酎は好きか?」と言っていた。
研修期間が終わり、配属の発表となった。東京勤務を約束されていると思っていたが、あっさりと覆り、愛知県へ転勤となった。
そこの勤務は、当時の僕には地獄だった。
上司は精神的に追い込むようなことばかりを言ってくる。結果を出しても評価されない。けれど、モチベーション(やる気)は上げろと要求する。先輩たちは、次々と退職していった。僕が熊本へ転勤する直前の3ヶ月間で2人退職した。東京の人事部が、これらの退職を異常事態とみて内部監査に来たほどだった。
仕事自体も容易なものではなかった。肉体的には、朝4時から、特定の部屋にこもってシステムの修復に取り掛かり、外にでるのは夕方になることもあった。その間は座ることもほとんどないため、相当に肉体疲労する。精神的には、昼夜を問わずケイタイでの呼び出しがあり、何時も1時間以内で現場に入るということが要求されていると認識していたため、完全に休みという心の状態は無かった。
このような仕事環境から、発作を起こしてはいけない。夜は熟睡しなければいけないとの想いが強くなっていった。発作を起こして、仕事に支障をきたしてはいけないと考えるようになっていた。なぜなら、上司から責められ、自分のプライドをコケにされるのが堪らなく嫌だったからだ。また、発作を起こしている醜態をさらしたくないとの思いもあった。しかしながら、自分がパニック障害なのだと、周囲に理解を求めるようなことも言っていた。(なんで周囲は理解してくれないのかという事が、ぐるぐると頭の中をまわっていた。それでイライラすることもあった。イライラが自分をおかしくするという考えは無かったが、非常に不快だった。その不快感を治めようと薬を飲むこともあった。)
薬の量は最初に処方されたものから増えてもいなかったが、減ってもいなかった。通院していた診療内科では、デパスはタバコを吸うよりも体に害がないから、服用して調子が良いなら続けましょうと言うことを言われた。実際の説明がどうだったのかよく覚えていないが、この心療内科で受けた説明から、気軽にデパスを服用するようになった。頓服だったソラナックスも、眠りたいなら就寝時に飲んだほうがいいですねとの説明から飲むようになった。
しかしながら、この気軽さとは裏腹に薬を飲むことが煩わしいと思うようになっていた。
先生に一生、薬を服用しなければいけないのかという質問をしたら、「一生薬を飲まなければいけないわけではない。何かのきっかけで、性格が変われば改善されることもある」との答えが返ってきた。
薬代や処方してもらうだけとはいえ、診療代もバカにならないとの思い、そして、「症状」の煩わしさから開放されたいとの思いから、その「何かのきっかけ」をつかみたいと強く願うようになった。その方法を尋ねるとカウンセリングを紹介された。
早速、その病院にいたカウンセラーと顔をあわせて話をした。
これで薬をやめて、パニック障害を治せるかもしれないと希望がわいて来た。
保険が適用されないカウンセリングは、1回1万円だった。それをほぼ毎週行うことで僕は承諾した。とにかく治りたかった。負担費用が高くても、これで治るのであれば後々に受ける恩恵も大きかろうと考えた。
結果、そのカウンセリングは失敗に終わった。結局は12回のカウンセリングだった。僕は12万円を支払って、何も変わらなかった。何の結果も出せなかった自分を責めた。先生は僕を治そうと懸命だったのはよく分かる。だから余計に、この何ともいえない感覚を処理できなくて、自分を責めた。
薬を一生のむ覚悟をした。回りの色んな人をみれば、生涯、薬を飲まなければいけない人は結構いる。だから、自分が薬を飲み続けるのは特別ではないと考えた。
そのころ、会社の指示で再度引っ越すことになった。同じ愛知県ではあるが、病院を変えようかと考えるほどの距離だった。
引っ越した先で、しばらくは通院していたが、薬を処方してくれれば何処でもいいとの考えから、近所の心療内科を受診した。
そこも予想通り、2時間待って診察3分方式だった。先生に特別何かを期待するわけでもなかったが、全快の夢も諦めきれず、たまに「症状」について質問をしたが、この先生は、ものすごく感じが悪かった。事務的な口調で、カルテから目も上げなかった。心療内科とは何なのだろうと考えてしまうほど、無機質な先生だった。
その数ヵ月後、テレビを見ながら夕食を食べていたら、「心療内科の医者、セクハラで逮捕」というニュースが流れた。テレビに写ったのは、無機質な先生の病院だった。その病院が閉鎖されたのは、そのすぐ後だった。
薬の必要な僕は、また違う病院を探した。
次の先生は、「普通」の心療内科の先生だった。2時間待って3分診療方式ではあったが、質問の答えも普通。治療方針も薬物療法であった。
僕は、診察の普通が分かるほどになっていた。なんだか、少しおかしかった。僕はきっと、患者のプロなのだと思った。
2002年。僕は結婚した。
「症状」は、薬と上手く付き合う事で安定していた。
結婚1年後、妻がバセドウ病であることが判明した。
たまたま妻が熊本に帰省しているときに、知人に勧められて病院を受診した結果、バセドウ病が判明した。しかし、当時は愛知県在住であったため紹介状をお願いし、愛知県の病院で治療することになった。
僕は、この聞きなれなかった病気を勉強した。せめて先生が説明する用語と病気の大まかな状態を理解したかったからだ。
その甲斐あって、どのような治療方法があり、それぞれのメリットとデメリットを理解することが出来た。
その上で、先生の診断結果を妻から聞いたので、基本的なことは理解できたと思う。
しかし、愛知県で治療を開始してから、妻はどんどんバセドウ病の症状ではなく、甲状腺低下症の症状を見せるようになっていった。
薬の調整がうまくいっていないことが原因なのは明らかだったが、通院していた先生からは、治療方法の説明はあるものの、現状に関する見解はなにもなかった。
怒りが爆発しそうだった。
どんどん鬱のような状態になっていく妻。ある日などは、帰宅すると服をハサミで切り裂いていた。
僕は、仕事でも相変わらず追い込まれるような日々が続いていた。
もうダメだと思った。
僕は、精神的に相当まいっていた。会社も休みがちになっていた。
とりあえず、妻を信頼できる熊本の病院へ通院させることに決めた。
当然のように、お金が瞬く間になくなっていった。
僕は、会社を辞める覚悟で転勤願いを出した。
なんと、受理された。熊本に転勤になったのだ。
辞めると腹をくくってから、「症状」も軽くなっていたような気がする。
熊本での生活が始まった。仕事内容は、基本的には変わらないが、お客さんからのプレッシャーは格段に緩やかだった。
妻の状態も安定しており、実家もあるし、これで僕の「症状」も消えていくと期待をもつようになっていた。
そんな期待もつかの間のことだった。
熊本の職場にも、苦手なタイプの上司がいたのだった。その嫌悪感から「症状」へますます意識が向くようになっていた。
このころ、ちょうど風邪を引いて、下痢と嘔吐が2日間ほど続いた。
すると、どうだろう。「症状」がかわったのである。
今までで、特徴的なものは、過呼吸で死ぬのではないかと感じていたものだったが、嘔吐感でどうにかなるのではないかと感じるようにもなっていったのだ。
明らかにデパスの量が増えていった。ソラナックスも朝から飲むようになった。しかし、それでも「症状」は治まらなくなった。
焦りがでてきた。薬が効かないのではないかと不安になった。
病院を再度受診し、パキシルを処方してもらったが、副作用のムカムカが気になり、飲むとやっぱりムカムカする感覚を覚えた。
何がなんだか分からなくなった。妻が一緒にいないと、外に出るのも困難なほどにまでなってしまった。出社するのにも、後ろから妻に追従してもらったこともあった。休みの日は、一歩も家から出なかった。いや、寝室から出なかった。出ることが出来なかった。
僕は、とにかく「症状」に囚われてしまった。
しかしながら、出社することは、続けていた。
苦手な上司は、僕を精神病と指差し、みんなの前で笑い、僕が発狂するとか、しないとかと言ったことをネタにしては嘲笑していた。周囲も、そんなことを言うのかと驚いていたようだったが、大抵は愛想笑いして調子を合わせているようだった。
惨めであった。悔しくもあった。しかし、見返してやろうといった類の思いは、起こらなかった。複雑で整理の付かない心境であったことは間違いないが、一般的に起こる怒りの感情はあまり感じなかった。
依然として僕は「症状」に囚われていた。絡みついた蜘蛛の巣から、解放されたかった。
そんなとき、妻の知人で医療関係の方から、主治医の存在を聞いた。先生のいる病院が、またしても病院だった。
正直、パキシルがだめだったから、他の薬もダメだろうといった考えもあったが、妻の知人から、すばらしい先生と聞いていたことと、2時間待って3分診療方式ではない病院ということもあって、奥の方にしまい込んだ希望が、再び輝いた。
岡嶋先生から「認知行動療法」というものがあることを聞いた。パブロフの犬を例に簡単な説明がなされたが、僕はそのときも「症状」に囚われていて、正直よく覚えていない。
とにかく、薬をやめることができて、普通の生活が出来るようになるのだと言うことは感覚的に捉えていた。
主治医の診察が始まった。矢継ぎ早に質問をされたことは、よく覚えている。その矢継ぎ早な質問で、緊張と不安が高まって行ったのもよく覚えている。答えなければという意識で、必死に質問の答えを声にした。
結果、僕は「発作を起こしている自分を他人に見られたくない」といったことを主に望んでいるということが、導き出されたように記憶している。
しかしながら、どのような“治療をしてもらえる”のだろうかと、なんだか心配にもなってきた。やはり、母と弟のことを解決することが、完治への道なのだろうか。
先生は、確信して「NO」と言われた。昔のことは、今となっては関係しない。もしくは、非常に薄い関係だという説明をされたと思う。そのことが、ますます「認知行動療法」への期待を大きくした。
昔のことが原因ではないと言われただけで、長年の呪縛から開放されるのではないかという希望がわいてきた。
今まで、どの先生もそんなことを言わなかったし、僕自身も薬物療法以外のものを調べようともしていなかったので、薬物療法以外の方法を知る由はなかったのだが。
繰り返しになるが、昔のことが原因ではなく、「問題は今」であるという理論に、大きな希望をもった。どうにもできない昔ではなく、どうにかできる可能性のある「今」に「問題」があると、先生は言っているのだ。
この説明をうけて、絶対克服してやろう!という気負った感じはなかった。ダメでもともとという、甘い態度もなかった。とにかく、今の僕には「できる♪」とだけ思った。「できる!」ではなく、「できる♪」だ。ふざけている訳ではない。「♪」だからやり遂げることが出来たと信じている。
次の診察までに、「認知行動療法」とは何かを勉強しようと本屋に出向いた。なんといってもプロ患者なので、基礎用語を習得するのは当然であると思って行動していた。
困ったことに、本屋で「認知行動療法」の本が見当たらなかった。あったのだけれど、なんだか難しい。基礎用語を知りたいのに、基礎用語を使って理論を説明しているような本だった。もう一冊が目に入ってきた。「森田療法と認知行動療法」と書いてあった。さっきのよりは、用語が優しかったので購入した。
その本を読んでみると、結局は「森田療法」の本だった。認知行動療法を知りたかったのだが。しかし、認知行動療法は、プロと直接話せるので、森田でいいかという軽い感じで、学習を進めていった。
次の診察で、「いいところ取りで行きましょう」と先生も仰っていたので、大きな方向は間違ってなさそうだと確認できた。安心して学習を進めていった。
今までの経験で、仕事で用いる技術書であれば、筆者の違う本を二冊、それを二回読めば、大まかな基礎は理解できていたので、そのようにした。
しかし、結局その三倍の量が必要だった。その量のほとんどは、「実践(エクスポージャー)」の成功率を高めるために必要だったのだが。
大きく、二つで説明されているようだった。
① 神経交互作用
② ヒポコンドリー性基調。
何かに囚われて、確認または回避行動をすることで、その囚われが増幅していく仕組みを「神経交互作用」と呼ぶらしい。
実践する項目を段階的に、不安の程度が少ない方から、大きく次の三段階とした。
① 映画館の真ん中の席で、映画をみる & 喫茶店でお茶をする
② 福岡に出張へ行く
③ 東京へ出張に行く(飛行機への搭乗、地下鉄移動を含む)
やり方は、いたって簡単である。発作をわざと起こして、過ぎ去るのを待つのである。
やり方は簡単でも、成功させるのは難しい。技術的な話ではなく、気持ちの問題だからだ。
最初は、「空想エクスポージャー」からスタートした。そのころ病院でエクスポージャーの練習があった。発作では死なないということを「体験で理解する」のに大いに役立った。
次は、実際に① から実践する。
一番やったのは、喫茶店でコーヒーを飲んで(カフェインを摂取し、動悸がおきやすくしておくためにコーヒーを飲んだ)、意図的に過呼吸をして、不安発作的な感覚を認識したら、息を止めて、過呼吸を治めて、不安に身を(心を)さらして、不安が過ぎ去るのを「実況」することだ。
これは、毎日やった。二週間くらいは、毎日やっていたと思う。失敗も、当然経験した。
しかし、その失敗をレビュー(分析)して、次に役立つような具体的な手法を編み出していくようにしていた。ここで、読破した6冊の情報がとても役に立った。
森田でいう「恐怖突入」を経験したのだが、その一連の態度を「あるがまま」の態度というらしい。その「あるがまま」の態度にも、どうやら二種類あるようだ。
「受動的あるがまま」と「能動的あるがまま」と呼ばれているようだ。
「受動的あるがまま」とは、ただひたすらに、不安の過ぎ去るのを待つ態度とされており、“心の自然治癒力が、心の不安を治癒する”という事をよりどころとして、やりすごすことに成功した。
「能動的あるがまま」とは、「目的本位」の態度のことで、「症状」を理由に仕事などの目的を放置せず、辛かろうがなんであろうが、やり遂げる態度の事であるらしい。
僕の場合、少々ややこしいが、「受動的あるがままを5回やり遂げる」ということを目的とし、「能動的あるがまま」を主軸において、成功するに至ったと思っている。1回の行動で「受動的と能動的」を取り込もうと考えたのであるが、そんな理論がなりたつのかどうかは分からない。しかしながら、「受動的あるがまま」を理由無しにやるのは、成功率を下げる可能性があるとの認識はあったので、苦肉の策で、そのようにしてみた。
福岡出張に照準を合わせて、エクスポージャーを重ねていった。
なんだか、以前より自分が許せるようになっていた。そして、自分で自分を励ますことができる様になっていた。こんなにも自分と向き合ったのは、初めてかもしれない。
これが、今思えば最大の苦痛だったかもしれない。
技術的には、主治医に全幅の信頼を置いて、その指導の下で、全身全霊の「気合」を二週間維持する事で、薬の重力圏外に到達した。
途中、置き換え目的で服用した薬を飲み続けて、安定しているのであれば、それでもいいかなと思ったこともあったが、デパスからメイラックスに置き換わった十一日目に、薬の服用を止めた。
なぜ、止めることが出来たか。「目的本位」の態度を正確に実践できるようになっていたからだと思う。でなければ、止めることは出来ていないと思う。二週間、喫茶店でやりこんだ「態度」だから、自信もあったのだと思う。
僕は、二度、薬を止めることに失敗している。初回は、いきなり服用を止めてみた。24時間以上たつと、離脱症状がでてくる。二回目は、錠剤を半分に割って、量を徐々に減らしてみたが、結局は離脱症状に捕まってしまった。
しかしながら、この二回の失敗は、三回目の成功に大いに役立った。置き換えの手法は、他の二つに比べると、容易く感じることができたからだ。
とはいえ、あのような状態になるのは、必要がなければ、二度とゴメンだ。
その後に、結構な頭痛が二週間弱続いたが、鎮痛剤も特に服用せず過ごしてみた。後で分かったことだが、この頭痛もデパスを止めた影響である可能性が高いことが分かった。
福岡では、当然のように発作もでたし、行く前夜も不安で押しつぶされそうになる瞬間もあったが、「目的本位」の態度を通した。この福岡出張でのエクスポージャーは、成功に入ると評価した。
帰りの電車の中で、あるなぞなぞが浮かび、大いに悟った感じがあった。
「答えは簡単です。1+1は?」
一般的には、2なのだが、これの答えは「簡単」なのだ。
「1+1は、2だろ!」と目くじらを立てていた。どんなに周りが「答えは、簡単なんだよ」といっても、馬鹿にしているのか?!答えは2だと言ってるだろ!と永遠に理解することがない、無限ループに入ってしまう。
確かに「2」という答えもあるが、「簡単」という答えがあることにも目がいくようになると、不安神経症ほど簡単なものはないと、腹から笑った。
それでも、東京では発作に苦しんだし、なにより頭痛がひどかった。これは前に書いた頭痛なのだが、デパスを止めた影響とは知らず、やり過ごすことに徹した。頭痛で眠れなかった夜もあるが、そんなことも大した事ではないという態度で行動した。実際には、「大変だ!」と思うときもあったが、外見の態度だけは、「普通の人」を装うように行動し続けた。地下鉄にも乗った。そこで、意図的に過呼吸も起こした。パニック発作になったが、やり過ごすことができた。エクスポージャーは成功した。
東京から帰ってくると、すがすがしかった。
治ったと思った。
見事に落ちた。
深夜の仕事に向かう途中だった。
パニック発作が起きた。やり過ごせなかった。誰かに助けて欲しかった。声がでなかった。うずくまった。でも、仕事に向かう足は止めなかった。また、うずくまった。とにかく、誰かに助けて欲しかった。死の恐怖に、僕は丸ごと飲み込まれた。
うずくまって30分。過呼吸は治まってくれたので、そのまま仕事に向かった。
遅刻することもなく、仕事は完了した。
治ってないじゃないか。肩が落ちた。
その発作をレビューした。なんということだ!という驚きと、ついに捕らえた!という喜びが入り混じった。
僕の中にあった「幼弱性」をついに捉えた。
紙は、燃えやすいという性質があり、鉄は燃えにくいという性質がある。
僕は、神経症になりやすいという性質があったということだ。この性質のことを「ヒポコンドリー性基調」と、森田では呼ぶらしい。
そして、その性質を変化させることも、できるらしい。
(ここには、もはや、母や弟が原因となる関係性が見当たらない。その性質を強めるキッカケではあったかもしれないが、やはり切り離して考えることが出来ると思う。主治医の説明の通りだと思った。)
おそらく、この幼くて弱い心を陶冶していかねば、何遍も「症状」は現れ、落胆することになるだろうと考えた。
ヒポコンドリー性基調には、「自己中心的」「依存的」「観念的」といった幼弱性があるらしい。これらを具体的手法で陶冶していこうと考えた。
その背景には、理論があるのだろうが、実際にやったのは次の項目だ。
① 早寝早起 (22:30就寝 6:30起床)→「依存的」傾向の陶冶
② 愚痴を言わない(公私共に愚痴を言わない)→「自己中心的」傾向の陶冶
③ 「症状」をいちいち口にしない。人に言わない。→「依存的」傾向の陶冶
④ 雑用でも何でも、頼まれたことは受けきる。→「自己中心的」傾向の陶冶
⑤ ① 〜④ について、学習し総括することで、観念的傾向の陶冶とする。
そのどれも大人としては当然の態度なのだろうが、その全てに僕は欠けていると思う。
この取り組みは、現在継続中で、評価するにも短いと考えるが、取り組み始めてからの約一ヶ月で、パニック発作や「症状」に対する不安は、ゼロである。
主治医に出会った当初、“治療してくれる”といった、受身の態度でいたが、学習が進むにつれて、主体的に取り組む姿勢が、なによりも克服への必須第一条件だったことに、徐々に気が付いてきた。そして、その主体的取り組みの姿勢を継続したことも、幼弱性の打破に大きく貢献していたと思う。
今が一番幸せだと本当に実感する。「症状」のあるなしに関係なく、この幸せは続くのだと思う。やりたいことがやれるのだから、こんなに幸せなことはない。
妻の些細な注意に対して、怒った。「症状」がでてからは、久しく怒っていなかったなと、怒りの感情に懐かしさも感じた。怒れるのは、回復しているからだと先生は言われた。
依存していたので、相手が離れるのを極度に恐れていたのだろう。
最近は、感情を豊かに感じるようになったと思う。薬がぼんやりとさせていたのだろうか。薬を絶ってからは、霧が晴れたようにクリアに考察できる。
幼少期から今までを「症状」を中心に振り返って、よくやってきたと自分でも感心します。これは、もちろん周囲の支えがあってのことです。
結局は、全てが僕にとって必要なものだったのだと、実感しました。一見すると、無駄のように思えた出来事も、結果として僕に忍耐を与え、新しいものの見方や考え方を身につけるきっかけを与えてくれました。
これから出会う苦労も苦痛も、きっとどこかで繋がって、また僕の品性を磨き上げてくれると信じています。そして、その狭間を埋めるように、幸せを感じる時間があるのかもしれないとも思います。
これから生きていくうえで、人生の分岐点に立ったとき、きっと苦労のより多い、一番過酷な道を喜んで進んでいくでしょう 感謝
Revised: 2007/03/20
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