私が病気になってから

  1. パニック障害・全般性不安障害
  2. 全般性不安障害やパニック障害の患者さんの感想文
  3. 女性 全般性不安障害2 ”私が病気になってから”

−X年1月−

年が明けて大寒の頃だった。

 いつものように『情報誌』のグルメコーナーやショッピング欄をぼんやり見ていると、「うつ病」という文字が目についた。“教えてドクター”という見出しで「うつ病」に関しての病状や治療法そして医師の紹介が載っていた。

 それが現在の私の先生との出会いのきっかけとなった一枚であった。

−X-2年−

〜夏〜

私は10年間勤めていた仕事(パート)を辞めてから、家事中心の生活へと変わっていた。それと同時に、母のうつ病が再発し出し短期の入退院を繰り返すようになった。仕事を辞めてから母と温泉や買い物へ行ったりしようと楽しみにしていたのだがそれがだんだん崩れていき、父と看病する毎日となった。

 また、頼りになる主人もその頃から多忙となり、日々深夜残業が続きだし、子ども(長女:高1、次女:中1)の学校の事も含め、心配事が増していった。さらに家事の負担も重くのしかかり買い物へ行くにも日増しに億劫になっていた。

〜秋〜

 唯一の相談相手は妹だった。彼女のすすめで、ある精神科をたずねたところ「うつ病」と診断され、それから薬を飲み始めるようになった。薬を飲む事に関しては抵抗があったが、飲まざるを得ないほど体が限界に達していた。そして親友にも励まされながらなんとか辛い一日一日を過ごしていった。

−X-1年−

〜冬〜

 母と一緒に正月を迎える事ができたが、母と私はお互いの体を心配し始めた。主人も長期残業に疲労しきり、父も看病の疲れからか、正月から心臓病で入院した。歯車が回らなくなっていた。

 そんな時いつも頼りになるのが車で20分ほどの所に居る妹だった。そして皆が少し休めるよう母を長期入院させようと話し合い、「うつ病」専門のよい病院を見つけることができた。

 しかし母は悪化するばかりであり、その情報を耳にするたびに私の「うつ」もひどくなり、精神科では薬を変えられたり増量されたりしていった。

〜春〜

 主人が人事異動になり時間に余裕ができだした。私も少し安心して体調が落ち着き始め、庭に咲きほこった花々がきれいだと感じるようになった。

 だが、それもつかの間であった。母が亡くなったという突然の訃報に深い悲しみと大きなショックを受けた。歩行出来ないほどの脱力感、そして口にした物は全てもどしてしまい安定剤の点滴をしながらなんとか葬儀までやり遂げた。

 その後、たまに点滴(安定剤)を打ちながら無理して家事をこなしていたが、体調は、ますます下降して行くばかりであった。

〜夏〜

 母の死から3ケ月たっていた。暑さが厳しくなるにつれ食欲・体力も落ちていき悶々とする日々が続いていた。その姿を見た妹が、私に検査と静養も兼ねての入院をすすめてくれた。その間、家事は妹が主となって手伝いに来てくれ、また主人や子ども達そして父までも協力してくれた。1ケ月ほどゆっくりはできたが、夜になると家族に迷惑をかけてすまないという気持ちや、治らぬ病気に対しての焦りやくやしさが募り何度もベッドで泣いていた。入院中も不安や恐怖があり点滴(安定剤)を打つと心地よい気持ちになり治療薬として欠かせなかった。

〜秋〜

 涼しくなったが退院しても状態は変わらず、引き続き妹や家族が料理や洗濯・掃除をしてくれていた。

 朝も理由もなくひどい恐怖感に襲われ隣に寝ている子どもに抱きついて震えていた。子どもにとって母親は太陽でなければならないはずなのに雲に覆われ、子どもと立場が逆になっていた。子ども達は一番精神的に敏感な年頃であったが、常に優しく私に声かけしてくれ、彼女達の笑顔が支えであった。

 通院し始めてから約1年になる病院では、変わらぬ私の病状に対し先生の対応も事務的になり、「絶対に治りますよ。」という言葉を半信半疑で聞きながら、点滴を打ち、毎回増やされていく薬をもらいながら帰っていた。

−X年−

〜冬〜

 何の目的もないまま気力も枯れ果て、時の流れに乗って、ただ漠然と生活する中、新しい年が明けた。そして私の回復への道しるべとなった『情報誌』に出会った。

〜3月〜

 治らぬ病気を引きずりながら、新しい病院に変わってみようかと考えていた。そして『情報誌』を何度も繰り返し読みながら2ケ月間迷い続けた末、思い切って受話器を取ってみた。運良くすぐ先生につないでもらえた。

 先生は丁寧で優しく、私の今までの状況をゆっくりと聞きながら、問診をされた。受話器の向こうでは「カチャカチャ」という音が聞こえており、速やかにキーボードを打ちながら私の話を記録されているのだと想像した。

 私は始めての患者なのに長い時間かけて対応され、熱心で信頼できそうな先生と感じ、病院を変えてみようかという迷いはすぐに消え、診察の予約を入れた。

初日

 病院には妹が付き添ってくれた。

 先生は私と話しをしながら想像していたように一言一言をパソコンに記録された。速記というのは聞いた事があったが、機械を操作しながら記録されていく先生の技術に驚き、そしてカルテに概要だけ記入されていく他の先生とはちがい、とても専門的で経験豊富な先生であると感じた。

 私は「うつ病」でなく「不安神経症」と診断され、治験を受ける事にした。

 治験とは・・・、「不安神経症」の薬として厚生労働省の承認を受けるために患者が薬(治験薬)を使い、安全性や効能などを調べ、その結果を厚生労働省に提出し審査を受ける研究の事らしい。

 私は薬を(治験薬)1錠だけ飲めば良いし、医療費の負担も少なく、いろいろな検査も含め、詳しい診察を受けられそうなのですぐに同意した。

 しかし、毎日日誌をつけ、治験薬以外は飲用してはならないという規定があり不安だったが、それよりも薬が減った事がうれしく、これで治るんだという希望が湧いてきて久しぶりにワクワクした気分になり病院を後にした。

2日目

 翌日容態は悪化した。朝から体がだるかった。ソファーに横になって様子をみていたが、夕方から突然落ち着きがなくなり、発狂しそうなくらい頭がポッーとし、足に力が入らなくなってきた。今までに感じた事がないきつさだった。仕事から帰宅した主人は、歩ける状態でない私に次女を付き添わせすぐに病院へと車を走らせた。

 途中、気分が悪く吐き上げた私の背中を、次女がやさしくさすってくれたのを覚えている。10年ほど前は私が看病し娘の背中をさすったものだったが、こんなに早く逆の立場になってしまい『ごめんね』と心の中で何度も思っていた。また、もしかしたらこのままずっと子ども達に迷惑をかけながら生きていかなければならないのだろうかと、将来の弱々しい自分が頭に浮かび先々を悲観し始めた。病院に到着するまでかなり長い道のりに感じた。

 当直の先生だった。

「どうしましたか?」の問いかけにも答える事ができず、口から出る言葉は、「お願いします!安定剤を下さい!点滴をして下さい!点滴!点滴!」「薬!薬!薬を下さい!」の連発で、車いすからのけぞりどうにかなりそうだった。

 廊下で心配そうな顔をして待つ娘の姿が目に入ったが、もう気にかける事もできず、親として見苦しい醜態をさらし始めていた。

 薬は主治医の許可がないと出せないという事で、連絡をとってもらっていたが、その間も体のやり場がなく何度も車いすから床へすべり落ちそうになった。

 心配して妹も駆けつけた。あまりにひどい私の状態を見て、主人も父も妹も薬(安定剤)を出してもらうよう願った。しかし治験中なので他の薬は出せないという答えで、長い押し問答が幾度と続き、2時間ほど診察室でバタついていたように感じた。

 結局、主治医の指示で、点滴も薬も出されないまま、その夜は病院の広いレクリェーション室で主人に付き添われて泊まった。

 レクリェーション室にはいつの間にか2組の布団がセットされ、看護師さんがとてもやさしく親切に対応してくれた。もう時計は0時近くになっていた。

 主人に支えられて布団に座り込んだとたん、やはり体のやり場がなく、頭を壁や部屋に置いてある遊具に打ち付け、七転八倒し始め、危険を感じた主人が力づくで私を押さえ止めた。うなったり、はいずり回ったり、今までに経験した事がない苦しみを味わいまさに地獄だった。3月下旬とはいえまだ朝・晩は寒く、のたうち回る私の体を気遣って主人は毛布をかけてまわった。このままでは主人は一晩中一睡もできなくなると思い、発狂したい体を必死に我慢して静かに横になってみた。

 主人はその様子を見て安心したのか、私の肩を叩いていた手が次第に止まり寝息が聞こえてきた。我慢しているのはとても辛く、陣痛という耐えきれないほどの痛みより、何百倍もいや何千倍も苦しかった。

 でも、主人がそばにいてくれた事だけでも救いだった。

 精神力で毛布にくるまり静かにしていたが、安定剤を要求するほどの体が自分自身にうち勝つことなどできなかった。

 たがが外れたように再び荒い呼吸をしながら暴れ回り出した。「疲れるから横になった方がいい」とやさしくなだめてくれる主人を振り払い、薬を求めた。

 私の体は「静」と「動」の繰り返しで長い長い夜が過ぎていった。

3日目

 夜が明けだした。

 こんなにひどい状態なので今日こそは絶対に薬がもらえると期待し、診察時間まで待った。

 その間に、早朝から父が弁当の差し入れに来てくれた。幼少の頃から優しく大好きだった父だけには心配をかけたくなかったが、目つきが変わった私を見てさぞがっかりしているだろうと思うと、『迷惑ばかりかけてほんとうにごめんなさい』と心の中で頭を下げていた。

 ドアのノブが回り先生の顔が見えたとたん,「薬!薬!薬!安定剤!安定剤を下さい!!」と気持ちが爆発した。

 「きつい?辛そうだね!」ゆっくりとした口調で先生は尋ねた。

 「きつい!きつい!もう死にそう!死にそうです!先生助けて!薬!薬!早く薬!」

 必死に頭を下げる私の様子を先生は一時見ていたが、訴え続ける私に黙って頭を横に振った。

 「薬はあなたにとって毒です!今まで飲み続けていた薬が悪さをしていて『禁断症状』をおこしているので苦しいのです。」と言われた。

 私は薬物中毒になっていた。そして麻薬やアルコール中毒症の人達も同じような苦しみを耐え乗り越えて行くのだろうかと考えると、信じられなかった。想像を絶するほどの苦しみであった。

 先生は家族に病状を説明するためにその場を去って行った。

 また長い戦いの時間が始まった。

 病院を変わる寸前、1週間ほど続けて安定剤の点滴をうっていた。もちろんたくさんの薬も飲み、体が薬依存症になっていた。これ以上服用すると私の体はますます壊れていきダメになるという話を家族は先生から聞いたらしい。そして私が要求している薬も点滴もしない方がよいという事がわかり、家族はその時点で納得し、全面的に先生を信頼して治療を続行させた。

 私の周りは皆『敵』になっていた。

 診察の患者が増えだし、私はレクリェーション室から談話室へと移された。そこには丸テーブルの周りにいすが4脚並べてあり、診察用の机やいす、そして寝返りもできそうにない細長いベッドなどが置かれていた。

 相変わらず体が薬を要求していた。「薬!薬!薬!」連発しながらテーブルやいすをガタガタ揺らし、机の引き出し、書類ケースなど全てをあせりだし薬を捜し始めた。どこを捜してもなかった。あるはずがなかった。苦しい、きつい、身のやり場がない、死んだ方が楽だった。窓側に長いケーブルが垂れ下がっているのが見え、一目散にそこへむかい首に巻き付けた。机の角や壁、窓ガラスに頭をたたきつけ、筆記用具を見つけては手の甲を思い切り突いた。見ていた妹が力づくで押さえ止めた。コントロールできなくなった体は周囲の人々に多大な迷惑をかけ始めていた。

 主人は駐車場で昨夜から一睡もできなかった体を休めていた。

 妹は、何も食べてない私を気遣い、一口大のおにぎりやゼリー錠の飲み物を用意してきて、私に少しでも口にするようにすすめた。

 危険な行為をする私には、常にだれかが付いていなければならない状態であった。あの時の私は、薬を求め、死を求め暴れ回り、まるでエサを求める猛獣のようであった。談話室の時計の秒針の「カチカチ」いう音が耳障りで、しかも1分1秒がとても遅く感じた。

 何度か先生が回診に来られ、私は土下座して薬を要求した。困惑されたが答えは同じであった。

 「オニ!先生は鬼!」と暴言をはいた。しかし、あの時『オニ』だったからこそ、今の先生は私を救ってくれた『神様』である。あの時、私にとって先生が神様に思えるような治療をされていたなら、今の私は存在しないと思う。

 夕方5時のチャイムが鳴り、主人と共に自宅へと向かった。外がやけに眩しく気分がとても悪かった。病院を後にすると広い広い畑が見えてきた。長いまっすぐな一本道になり車のスピードを感じ出したら、このまま車から身を投げたいと思った。『死にたい』という気持ちは頭から離れなかった。

 また、車の窓から、『○○病院』、『○○医院』という看板が目につくと以前の病院を思い出し、その病院に車を走らせるよう主人に頼んだ。しかし先生から十分に私の病状に関して説明を聞いている主人は耳を傾けなかった。

 家に到着すると、私のために父が黒い大きな傘をかざして玄関まで体を支えて行ってくれた。寝室である2階の部屋の埋め込み式のライトも、半分アルミはくでかぶせてあり、程良い明るさにしてあった。父の細やかな気配りが感じられた。テレビやコンポ等の機材は、頭を打ちつけぬよう薄手の布団が覆いかぶせてあり、文具を入れた引き出しや置物等全てが片づけてあった。私が病院にいる間に父や子ども達が過ごしやすいようにしていてくれ大変だったろうと思った。

 もちろん常用していた私にとっての『毒薬』は一粒たりともなく、ゴミとされ捨ててしまってあった。その後も一睡もできぬまま、昨夜病院で過ごした状態と同じような夜が続いた。

4日目〜5日目

 その後も昼間は病院の談話室で過ごし、夕方は帰宅するという生活が続き私の容態に変化はなかった。主人の車はワンボックスカーで私はいつも後部座席に乗っていた。主人の運転中『死のう』と思い何度もドアに手をかけたり、天窓のスイッチを押し乗り出そうとしたり、車内でハサミを見つけては手首を切ろうともした。主人は何をするか分からぬ私の様子を振り返りながら、危ない状態で運転し病院へ連れて行っていた。

『薬』か『死』かどちらかだった。

 私のせいで主人も職場の人々に迷惑をかけながら最小限に仕事をこなし、妹と共に私に出来るだけ付き添った。処方箋がないと薬がもらえない事はわかっていても、勝手に薬局へ行ったり、ゼムクリップを見つけては針金の先を左手にさそうとしたりして、薬や点滴を求めていた。

 そして『薬』がだめなら『死』だった。舌を口で噛みきろうとしたり、医療器具で自分の体を傷つけたりして、帰宅した時は、私の手足は傷や打撲の跡でいっぱいだった。

 主人や妹をはじめ、病院のスタッフをかなりふりまわし迷惑をかけていた。

 あまりのひどさに主治医の先生が駆けつけられ、私を押さえつけている人達に一言「自由にさせてていいですよ。」と・・・

 先生の言葉を聞くと、本気で死ぬ事はできなかった。先生はいろいろな事例を見てこられ経験を積んでこられた結果、致命傷までは至らないという事がわかって言われたのかと今思う。

 先生の言葉はいつも私の心理をついておられ、自信をもっておられると感じていた。だから『オニ!』と暴言をはいたものの信頼はしていた。

 何日も何日も台風は過ぎ去らなかった。家族に多大な迷惑をかけ続けているのを感じ、私自身を「檻のある部屋に入院させて!」と叫んでいた。

 しかし、主人は子どもの顔が見える家で私を過ごさせて治療し、入院は考えていなかったようだったらしい。

6日目〜8日目

 その後、春分の日をふくめ連休となった。先生は私や家族の事を配慮してくれ、休み中も談話室が使用できるよう手配してくれた。だが私自身はもうその部屋には行きたくなかったので自宅で過ごした。家でも病院と同じ状態で『薬』か『死』を求めるために暴れ回った。流し台の引き出し、整理箱、子どもの机の引き出しあらゆる所を荒らし回り、薬や包丁・カッターナイフを捜した。

 夜は特にものすごい恐怖感や不安におそわれ、体が震えだしどうにもならなかった。ガラスケースの置物やCDを割ろうとしたり、近くのアパートから飛び降りようとか、踏切に行こうとか考え、外へ出ようとしたりする私を家族は力づくで押さえつけ、私の行動を四六時中見ていた。楽しいはずの連休なのに、私のせいで家族は悲惨だったと思う。そしていつの間にか家の出入り口には近所にわからぬよう板や棒・防犯用のカギなどが施され、完全に外の世界から隔離されていた。

 あまりにひどい状態が続いたので、家族が先生に連絡をとった様子で連休中にもかかわらず、先生から電話があった。

 私は直接話をして、薬がもらえないなら死ぬと訴えた。先生は支離滅裂な私の話を冷静に聞きとめ長い時間電話で対応してくれた。そして私の考えている事の果てには、その後の家族の深い悲しみと今以上の苦しみを残すのだという事を私に話してくれ電話を切られた。

 以前にも通院した日の夕方とかに先生は何回か自宅に電話を入れてくれ、この日の長い電話により、先生に対してはさらに信頼感が増し、声を聞くだけで安心していた。

 連休明け前日、1週間も寝ていない私の体は限界を感じていた。薬は毒と言っていた家族も私の気持ちを聞き入れてくれ、明日の診察の場で改めて先生と話し合い治療法を考え直そうという結果になった。私は安心した。

 その日の明け方だった。私は一段とすごい恐怖心を感じ震えながら主人を起こした。死が自分を襲ってくるような感じがして、今日は死ぬ日なのではないかというとても言葉では言い表せない恐ろしさだった。

 「怖い!怖い!体が変!死ぬ!死ぬ!私、今日が死ぬ日みたい!」

 「お母さんが迎えに来たみたい!もうダメ!ごめん!」

 主人にすがりついた。今日予定の診察まであと6時間。とても待てなかった。

 「大丈夫!大丈夫!」と主人が体をさすってくれたが言葉は耳に入らなかった。それまでも恐怖心はたびたび感じていたが、まったく違ったものすごい恐怖だった。ふと以前の病院の薬を1袋だけ台所の引き出しの奥に入れていたのを思いだした。1錠(安定剤)だけ飲んでしまった。効力はすごく即座に落ち着いた。

9日目

 午前中、先生との話し合いの末、治験は中止し,他の薬を出すことになった。依存性の少ない安定剤を出された。この1週間は『峠を越えている途中だから・・・』『暗いトンネルから光りが見えて来ているから・・・』とか言われ主人や妹から励まされたが、またスタート地点にもどったわけであり今後回復するなどとても考えられなかった。

 その後、帰宅して安定剤を飲み、久しぶりに落ち着き2〜3時間眠った。しかし、また朝方感じたような死の恐怖があらわれた。すぐに妹を呼び父と共に夕方再び病院へ向かった。

 病院に到着して談話室へ入ったとたんドアのすりガラスや角張った所、壁に頭を思いっきりぶつけたり、廊下をのたうち回ったりして苦しんだ。

 主人も職場から直行して来た。父だけにはどうしても心配をかけたくなかったが、もうどうすることも出来ずひどい醜態をさらした。

 先生の顔が見え,「薬!薬!薬を下さい!」と白衣のボタンがちぎれるほどすがりついた。

 「朝から安定剤を出したでしょう。」いつものようにゆっくりとした口調で言った。

 「ちがう!今度は睡眠薬!睡眠薬!睡眠薬を下さい!」先生を離さなかった。

 しかし、首を横に振り「自由にしてていいですよ。」と言い残し家族と話し出した。

 私にとってこの一言は一番いやな言葉であり、自由といわれほっぽりだされると何をしてよいのかわからなくなり、くやしい気持ちであった。「もう疲れました。」という父の言葉が耳に入った。父にはほんとに申し訳ないという気持ちで一杯だったが、どうすることもできない体になっていた。

 衝動的に外来の2階へ駆け上がり、廊下や壁に力一杯頭をぶち続けた。途中、廊下の壁が破けてしまい、数週間後に病院に来たときにその跡を見て、寝てもいない・あまり食べてもいないのにすごい力が残っていたのだと思った。

 2階をヨタヨタ歩いていたら正面に光りが差している窓が見えた。そちらへ向い飛び降りようと考え下を見た。ずっと下を見ていた。茂っている木々の葉一枚一枚に子どもや主人、父や妹、姪の笑顔や親戚のおばさん達・・・が写った。

『私の行為によって家族に今以上の苦しみや深い悲しみをあたえてしまい、まわりの人々にも迷惑をかけてしまう。いけない!絶対に!やめよう!』そう感じた。

 私は元の方を振り返った。

 いつの間にか先生が遠くから見ていた。やはり止めようとはせず常に私を自由にさせていた。

 力つき1階へ降りると先生が依存性の少ない睡眠薬(クロルプロマジン)を処方してくれた。時計は夕方5時をとっくにすぎていた。その夜から安定し眠りについた。そしていつも主人は私のそばにいてくれ、記入しなければならない日誌も書いてくれた。それからひどく暴れ回るという事は少なくなり、通院も週1回になった。

 春休みに入り子ども(小6)がいる妹も多忙になり、代わりに叔母がずっと手伝いに来てくれた。叔母は亡くなった母と双子の姉妹で、容姿はもちろんのこと声や仕草もそっくりで、私達(妹と)が幼少の頃はかなり世話になり、母同然と思っている。そして叔母が来てくれた事で私は大きな安心感がでてきて、病気になり辛いが家族の他に母を感じることができる叔母の存在が支えとなって私は幸せ物だと感じた。叔母が来てから少し家が明るくなったようだった。

〜4月〜

 母の一周忌がきた。母の死を受けとめる事がまだできずに生花や線香の香りがすると、突然の母が亡くなったショックや当時の一部始終を思い出し、ますます不安と恐怖が高まり仏壇の前に座ることができなかった。家の中をウロウロ歩き回るか、ソファーに横たわり荒い息づかいをしながらまだ以前の薬を求めたりの毎日であった。

 家事を叔母や家族に頼って、毎日何も出来ずに迷惑ばかりかけている自分をいらだたしく感じ、いつになったら治るのだろうかと悲観的になり、特に夜になると精神的なきつさのあまり泣きながら、発作的にタオルで首をしめつけようとした。「治らないからやっぱり死にたい。」時々言っていた。そんな私に主人から、何も気にせず、いつまででもよいからずっとソファーに横たわり、ゆっくりしておく事が今の私の仕事だと言い聞かされ、そして子ども達は私の顔が見られるだけで安心するから、焦らないようと言った。

 私の存在があるだけでいいのかと思うと気が楽になった。それからテレビを見て久しぶりに笑った日があった。

 病院を変わって1ケ月たった頃、トイレも介護なしではいけなかった体にも体力がつき始めた。それまでは妹や叔母が重いバケツに湯を入れ、大きな容器に入れ替えしながら私の手足を洗ってくれていたが、何十日ぶりに娘と入浴した。しかし、すぐ疲れを感じた。時の流れに乗って、ただぼんやり生活していたように思う。

〜5月〜

 連休中も私の居場所はソファーだった。ハアハアと荒い呼吸をしながら恐怖心や不安もまだ消えなかったが、この頃から睡眠薬なしで眠れるようになり、薬への欲求もだんだん消えてゆき、自分で日誌を記入出来るようになっていた。

 そして、避けて通っていた母の死を徐々に受け入れられるようになり、墓前で手を合わせることができた。母と共に私も病気になり、生前母に何もしてあげられなかった事を悔やみ申し訳ないと思った。母の冥福を祈った。

〜6月〜

 梅雨の季節に入り、我が家にかわいい家族が増えた。ペット(子犬)を飼い始めた。

 それからは、子犬中心の生活へと変わり、名前を考えたり、躾をしたり、ペットショップへ行ったりし、子どもが1人増えたような感じであった。子犬が決められた場所に排泄ができるとうれしく、また、かわいい仕草を見ると顔がほころび心から癒された。私に小さな変化が起こりだしたのはこの頃だったかもしれない。

 ただ気分的には、まだ憂鬱さや何かしたいという意欲もなく興味も湧かなかったが、振り返って日誌を見ると規則正しい生活となり、夜は主人と叔母と近所へ散歩へでかけるという毎日になっていた。

〜夏〜

 梅雨が明け、私の調子も落ち着きだしたので3ケ月ほどいた叔母も帰った。家族や叔母のおかげと愛犬(桃花)の存在で少しずつ元気になり、会話や笑い声も絶えぬようになり、外へ出かける事も多くなった。子どもの吹奏楽コンクールや地区の夏祭り、また姪と夏休みに宿題や自由研究をしたりして楽しんだ。そして母の墓参りも毎月欠かさず行っていた。

 でも、体調は完全ではなかった。疲れやすかったのか、体が充電できぬまま突っ走ってしまうと無理が生じ寝込んでしまい、1週間ごとに良かったり悪かったりの繰り返しであった。

〜秋〜

 涼しい季節となり、次女は本格的な受験モードに入り塾に通いだした。心配していた塾までの夜の送り迎えは父と主人が協力してくれた。本来なら私が主となり送迎をしたり、好物の夜食を作ったりして娘を精一杯支えてやりたかったが、それが当時はまだ出来ずにいたのでずいぶんくやしく残念でたまらなかった。

 そのような中、私はまた体調が悪くなり今度は救急車で総合病院に運ばれる事が起きた。いつものようにソファーで休んでいたら、呼吸がかなり荒くなり苦しく全身がしびれだした。心臓が止まりそうで死ぬかと思った。(もう死にたくはなかった)

 すぐに妹や叔母も駆けつけてくれ、ふたたび周りに心配や迷惑をかけてしまった。突発的な過呼吸発作と診断され、だれにでもあり心配ないといわれ後々笑い話で済んだが、救急車を呼ぶくらい周りを動転させてしまった。回復は早かった。

 その後、運動会や文化祭や食事へ出かけたり、愛犬を連れてコスモス畑へ散歩に行っては、たくさんの写真を撮ったりし楽しみができだした。毎日が充実した日々となっていた。

−X+1年一

 私が作ったおせち料理を囲み、家族でよい正月が迎えられ、よい年にしたいという希望が湧いた。

 入試前の娘に弁当や夜食を作りながら、それができる事の幸せを感じ、始めての受験に対し不安や心配をかかえている娘に、力強い言葉かけで毎日応援し支えてあげた。1年前の私ならできなかったが、最終段階にきて娘に私の出来る限りの力を注ぐことができうれしかった。

 そして発表の日・・・娘は希望校に無事合格。私が今まで通って来た長くて暗いトンネル・空白の2年間が一瞬にして消え去った。娘と二人、感動し、互いに涙で喜びあった。・・・生きていてよかった!

 昨年、閉ざされた生活をし、季節の変化もわからぬまま過ごしていたのに、今年は、満開の桜を見ることができ、これまでの中で最もきれいに感じたのだった。

 私がこの病気になり長い間、周りのたくさんの人々に迷惑をかけてきた。

「迷惑ばかりかけている。」

「申し訳ない。」

「何の役にもたたない。」

「死にたい。」

 この言葉がずっと頭にあり、いつになったら治るか分からない病気をずっとかかえ、生きがいのない悶々とした生活を過ごしてきた。毎日が辛くて苦しく悲観的であった。

 しかし、どんな時も私の病気を理解し、優しい言葉かけで激励し暖かく見守ってくれたのは家族をはじめ妹や叔母だった。

 私は家族なしでは、とても辛くて苦しい道のりを乗り越えられなかったにちがいない。

 毎日、職場から電話を入れてくれ、いつもそばにいてくれた主人、家庭をもちながら長い間、毎日のように夕飯を作りに来てくれた妹、細やかな気配りで常に私が安心できるような環境にしてくれた父、私の病気のせいで我が家が暗くなりそうな時明るくユーモアたっぷりに笑いをくれた長女、たくさん手伝いをしてくれた次女、そして母のように暖かく包んでくれた叔母。

 家族の支えがあったからこそ今の私が存在しているのだと思い、心から感謝している。子どもにとって今の私は眩しすぎるくらいの太陽のようらしい。

 家族のために家事ができるという幸せを感じながら、趣味のお菓子作りや愛犬の洋服作り、そして食事やショッピングへ行ったりして楽しい毎日を送っている。笑いの絶えない明るい我が家となった。

 先生をはじめとする病院スタッフの皆さんや家族、周りの人々のおかげである。

 感謝の気持ちは一生忘れないであろう。

 オーブンから甘いかおりが漂うリビングで、今日も入っていた『情報誌』を読んでいる。おいしいランチを見つけるために・・・

Revised: 2007/03/20
Page Top ▲