ケースの見方・考え方 原井の場合3:原井宏明,村井佳比子. 症例検討会でのスーパービジョン.精神療法,44(3),xxx-xxx,2018

はじめに

前回の誤記訂正から

原井の私事で申し訳ないが、前回2回目の原稿の校正が届いたとき私のマンションに息子がやってきた。ちょうど良いタイミングなので彼に肥前療養所の保育園で起きたゆで卵事件のことを尋ねてみた。

息子「オヤジ、茹で卵じゃないよ、『これ有精卵なんだよ、あたためたらヒヨコが生まれるんだ』と言ってその男性が僕にくれたんだ。」

私「え!(校正のやり直しが必要か?)それから、どうなったの?」

「うん、それで家に持って帰って生ませたいと思って、ママにそう言ったら、速攻で捨てられた。」

「そりゃそうだろうな(ここは記憶通りだ、良かった)」

「でもね、僕にはその患者さん?がまったく変な人には思えなかった。本当に有精卵をくれたんだと思ってうれしかったんだ。今でもその人のことを頭のおかしな人とは思えない。」

「うんすごいことだね。(良い話だな。それにしても、どうして私の頭の中で有精卵→ゆで卵になったのかなあ?20年以上前の話だから仕方ないし、ストーリーが壊れたわけじゃないから、校正のやり直しは諦めよう。)」

前回の論文の最後に取り上げたエピソードの「ゆで卵」は「有精卵」だった。食べ物ではないから衛生上の問題ではない。しかし、精神病患者からもらった卵が母親の手によって速攻で捨てられるのは同じである。このエピソードを取り上げた主旨は精神障害者に対する差別感情と衛生・安全・規律を守ろうとする価値観が表裏一体であることを示すことが狙いだった。誰が卵を息子に渡したかが重要なのであって、茹でられた後かどうかは関係がない。間違いは確かに間違いだが、これぐらいの変更であれば症例報告をするときに行う個人情報保護のための詳細変更と同じだろう。

しかし、なぜこのような記憶の書き換えが起きるのだろうか?今、推測するとすれば当時の私は息子から話を聞いたときに、当時の肥前療養所には鶏小屋は無かったから、「有精卵をもらった」という話を信じられず、卵の出所は病院の給食に出た茹で卵だと解釈したのだろう。そして自分の憶測が息子の発言と入れ替わって記憶に残ったのだろう。

記憶にはさまざまな種類があるが、エピソード記憶のような宣言的記憶と言語としては残らない手続き記憶の2つに大きく分けることができる。そして宣言的記憶はさまざまな要因で変化する。読者によっては、なぜ母親(=私の家内)が速攻で卵を捨てたところがそのまま記憶に残っているのか、私と家内の間の価値観の違いについても考えようとする人がいるだろう。確かに私がこの卵事件を覚えていて前回詳しく書いたのは価値観の違いを反映する身近な例だったからだ。

人の記憶はビデオカメラではない。記憶の書き換えは頻繁に起こっており、しかも無意識に起こる。問題というよりも人のごく自然な行動である。どの記憶が再生されるのかも状況次第である。人の記憶は昔のVHSビデオテープのように頭から必ず順番に再生されるものではない。目立つところ、気になるところだけが部分的に再生されて、前後の文脈はCMのようにすっ飛ばされる。逆の順番で再生されることもよくあり、よほど注意しないと本人も周りもそれに気づかない。

ある経験をした後、その経験を言葉にして記憶する過程で人は辻褄が合うようなストーリーを作り上げる。思い出して述べるときにはそのストーリーに合うように改変したものを言う。思い出す順番はその場の気分や都合に合わせた便宜的なものになる。前後の文脈は無視される。症例検討会は報告者の記憶に基づいて行われるのだが、その記憶はどのぐらい信頼できるのだろうか?しかし、もし答えが否定的であっても、やはり頼れるものは記憶しかない。その中でどこまで役に立つ症例検討会ができるのだろうか?

症例検討会とは

症例検討会の役割と仕組み

事例検討やケースカンファレンスなど呼び名はさまざまだが、おおよそ、ほとんどどの専門職でも事例の検討を専門職のみを集めた中で行う。学会の定番プログラムであり、公認心理師になるためにも必要である1)。会場には症例を出す報告者と指導者、聴衆がいる。指導者は症例の診断分類や報告者が使った治療法に関するエキスパートである。たいていの場合、報告者が事例をスライドや印刷資料を使って時間の流れに沿って説明し、指導者が主に質問し、聴衆が次に質問する。報告者が答えさらに質問が続く。

たいていの検討会では指導者の質問は数回以上続き、その内容は批判的である。以前の経験がある報告者なら、最初から身構えている。前から質問への備えをしていることが多いが、それでも答えられないような質問が飛んでくる。報告者はとりあえずの言い訳をし始める。言い訳はさらなる質問を引き出す。報告者が立ち往生してしまうような事例も私が見る中では何度かあった。立ち往生するのはまだいい方かもしれない。質問と答えがかみ合わず、聴衆が顔を見合わせるような事例もあった。

指導者が権威を振りかざし、報告者は小さくなって陳謝するばかりになり、聴衆はため息をつく、このような症例検討会に不満を感じる人がいる。村山のように新しい事例検討法を提案する人もいる2)。これは「対人援助職がエンパワーメントされ、自分で問題を探る視点を身につけ、自分で事例を抱えて対応できるようになること」であり、「単なる事例対応の方法ではなく、その人自身の心理的成長であるのだが、個の心理的成長の視点を基盤にした事例検討の方法」である。その方法として、ホワイトボードを使って情報を視覚化・共有化し、指導者はファシリテーターと呼ばれ、報告者を批判することを避け、記録を取らないようにする。

機能

私も村山の考えに賛成である。症例検討会は何の役に立つのだろうか?どのような結果を目指すのだろうか?と考えたとき、指導者が自分の専門性を披露して聴衆から喝さいを浴びることや、報告者の間違いが明らかになり参加者にとっての今後の戒めになることはあっても構わないが、主要な目的ではない。村山の言うようなパーソン・センタードの考え方で言えば、症例検討会においては報告者や聴衆もクライエントである。1)報告者、聴衆の技術が向上する、2)報告者が今後もクライエントを担当する場合は、クライエントの生活がより改善する、この二つが主な目的だろう。しかし、目的が同じでも実際にやることは違う。私が指導者になって行っている症例検討会はどのような方法をとっているのだろうか?

NAKNAK-なごや強迫などなど研究会

原井の症例検討会

なごやメンタルクリニックで働きだして4年が経った2012年1月から、毎月1回一般参加が可能な症例検討会を始めることにした。次が最初の案内のメールである。

なごや強迫などなど研究会(NAKNAK)を毎月開催しています。

参加者が持ち寄ったケースを検討する2時間です。

参加資格は行動療法学会員であること,臨床のケースを発表できることです。

※大学院生の場合は指導教官からの依頼があれば可です。

ケースの診断名は問いません。

日程は,OCD集団療法開催の土曜日19時~21時です。

軽食を各自持ち寄り食べながらでのカジュアルな検討会です。

毎月の予定は ホームページのカレンダーをご覧ください。

参加申し込みは,岡嶋まで。

方法は単純である。多少の料金を取ることで指導者はボランティアではなく、参加者は料金を支払うクライエントであることがはっきりするようにした。グループで行い、プレゼンテーションソフトとプロジェクターを使って情報を視覚化・共有化するようにした。ホワイトボード上の私の手書き文字は無残だが、タッチタイピングならば早いし、教育的資料を検索し、その場で見せることができる。

私の指導上の原理原則は行動療法である。必要な場合には付け加えて精神科診断学や薬物療法、UpToDate®などを使ってエビデンスに基づく治療情報を提供することを含めるようにした。参加者がEMDRや催眠などの他の技法を提案することは構わない。皆がその方法に興味を持てば、その場で検索し、どのような評価がなされているかがわかるようにした。報告者が明らかに間違った方法や説明をしていたとしよう。それを批判するときに眼の前にいる指導者から肉声で行われる場合と、ネットを検索したら批判的な評価が散見された場合とでは受け止め方が違うだろう。

2017年12月まで6年間続けた。自分がしたことを自分で報告することには想起バイアスなどの問題があることは、息子のゆで卵事件からすでにわかっている。当初から参加していた村井心理士に様子を報告してもらうことにしよう。いわば村井によるNAKNAKの事例報告である。

NAKNAKのやり方(村井)

その特徴

通常の症例検討会の進め方の基本は、事前に報告者が事例の概要をまとめ、検討会当日にそれを発表し、参加者とディスカッションし、最後に指導者がまとめて解説することである。しかし、NAKNAKの運営は違う。参加者の自己紹介と近況報告から始まる。ある参加者は最近の臨床の成果について語り、ある参加者は忙しさでマインドレスになっていたことを語る。ある参加者は今まさに手こずっているケースについて悩んでいることを語る。そこからいきなりディスカッションが始まることもある。ディスカッションがそのまま広がって、ロールプレイや実際の治療のデモンストレーションにつながることもある。恐怖症に対するエクスポージャーの実演になったりする。

村井がNAKNAKに参加するときもさまざまである。事前に事例報告を用意する場合があれば、メモ書き程度の資料にするか手ぶらで参加することも多い。その場で起こったディスカッションから学ぶことの方が多く、参加のその時の自分をそのまま持っていくという感じである。部屋に入ると日付と参加者名のスライドがスクリーンに映されている。参加者が自己紹介で語る言葉が、原井によって文字になり、サマライズされていく。

事例を報告する時も同じである。治療者が1人で事例をまとめると、いつの間に記憶が別の情報に上書きされていたり、順番が変わっていたりするようなことがよくある。そうした抜けたり、変えられたりした部分がNAKNAKの中で浮き彫りになる。原井は時には検索した画像や動画を使い、参加者が語ることを具体的なイメージとして参加者全員に見えるようにしていく。

摂食障害のある事例

あるとき他の参加者が摂食障害の事例を取り上げ、全体でのディスカッションになった。村井もその時、担当していた事例の話をした。過食嘔吐が連日だったものが週1回に減り、インテーク時点で希望していたようにアルバイトを始め、続けられるようになった。週3回働けるようになったとき、「本当はフルタイムで仕事をしたいが、でも体力的に無理だと思う」と言う。自分で自分に制限を課しているようだった。フルタイムで働けるようにするためにはどうしたらよいかをカウンセリングのテーマにしていたが、そこからクライエントは変わらなくなった。

治療者として何か見落としていて行き詰っている気がするが、それが何かわからないと参加者の前で話した。多方面からの質問があり、それを原井が1枚のスライドにまとめていく。村井の説明と質問が入り交じる中から、原井がピックアップしたものは次の3点である。

  • クライエントは3人姉妹の真ん中、姉と妹は既婚
  • 以前の職場は幼稚園(女性の多い職場)
  • 甲状腺疾患があり、中学生の頃から婦人科での治療を不定期に続けている

原井は「クライエント自身が触れないように避けている話題があるのではないか」と指摘した。この時、村井は恋愛や結婚については十分に聞いていなかったことに気づいた。クライエントのもともとの希望がフルタイムの仕事に就いて自立することだったので、そこに焦点を当てすぎていたのである。他の参加者も同様に気づいたようだった。

この後のNAKNAKでは、さらに“幸せ”について活発なディスカッションが交わされた。翌週、クライエントとのセッションで改めて結婚についての考えを尋ねてみた。「結婚したいと口に出すと、自分が仕事から逃げているような気がする。罪悪感がある」と答えた。その後、カウンセリングの中で健康的に異性の話ができるようになった。最終的にフルタイムの仕事に就職し、そこで終結となった。

力動的な志向がある指導者が行う症例検討会ならば、村井が逆転移を起こし、性についての話題を避けているという解釈が与えられていたかもしれない。実際、NAKNAKで取り上げてもらう前のカウンセリングで結婚や恋愛について尋ねたとき、クライエントが「結婚はしたいが、今は仕事をして自立したい」と答えていた。それをそのまま鵜呑みにしていたところがある。これもNAKNAKで取り上げてもらってから、後で思い出したことだった。

NAKNAKでは事例報告の中で起きる見落としを個人の問題にしない。参加者全員で自分のこととしてとらえ、見落としていたことに気づくとお互いに喜び、発見するプロセスを経験として共有する場となっている。指導者である原井自身も困難を極める事例がある。そのような場面では率直に「どうしたらいいのか困っている」と話す。NAKNAK自体が指導者も含めた実践の場となっている。

では原井は何をしているのだろうか?

村井が報告していることはなんだろうか?参与観察しながら、全体の様子を伝えてくれている。村井自身がどんな準備をして来るのか、摂食障害の事例を例にしてどんなことを原井がしたのか、その後、結果としてグループ全体に何が起こったのかを書いている。最後に他の症例検討会と比較の上でNAKNAKのメリットを述べている。読者はこの報告に何が足りないと思うだろうか?

私なら、「原井の心の中ではどんなことが起こっているか?」を知りたい。原井はプレゼンテーションソフトを使って何をしているのだろうか?村井の報告を元にして自分で考えられる範囲でポイントをピックアップしてみよう。

問題を行動として捉える

とりあえず報告者が述べたことを時系列に合わせて文章にして書き出す。ただし文章にする時、そのままオウム返しのようにはしない。いくつか気をつけていることがある。

否定文を肯定文にする

「○○していない」のような否定表現は肯定表現に置き換える。例えば学生が「学校に行っていない」ならば「家にずっといる」、「夜に眠れない」ならば「夜はずっと起きている」に置き換える。私は言葉としては説明しないが「死人テスト」「具体性テスト」を頭に思い浮かべながら書くようにしている3)。

形容句は参照点を明確にする

「良くなった」なら、初診時などのどこと比較して良くなったかを示す。良悪や上下、左右どんなものでも形容する言葉は相対的である。

状態は開始と終了を明確にする

「辛い状態」ならば、いつから辛く、いつそうではなくなったかを示す。どんなに辛い思いをしている人でも、お腹が空いた時に甘いものを食べることやお風呂でゆっくり体を休めること、布団に入って何も考えずに眠れた日はあるだろう。

刺激→反応連鎖分析

行動は単独で生じることはない。前に何かあり、後に何かある。そしてそれだけで終わることはなく、続いて何かが起こっているはずだ。刺激が行動を生み、行動が次の行動の刺激になる。

ロールプレイ

人の記憶の種類は大きく分けると、宣言記憶と手続き記憶に分かれる。前者の一部がエピソード記憶である。息子の卵事件の話がそうである。手続き記憶は長期記憶の一種で、技能や手続き、ノウハウ(手続き的知識)を保持するものである。非陳述記憶や、技能記憶、連合記憶といった名称もある。いずれにしても簡単には言葉で説明できないことが多く、意識しなくとも使うことができる。いわゆる「体が覚えている」状態である。どんな報告者もクライエントの前でもやっているはずだがそれは言葉にはならない。

そこで症例検討会の中で参加者の誰か1人にクライエント役をやってもらい、報告者はカウンセラーとなって、カウンセリング場面を再現してもらう。会話はやはりスライドに打ち出していく。それを参加者全員で観察するわけだが、そこで初めて気づくことがある。役割を逆にする時もある。この場合、報告者はクライエントの言葉になっていない感情に共感することができ、気づきが多い。ロールプレイが手続き記憶を言語化する手段になる。

随伴性判断の検討

介入Xをしたら、クライエントの変化Yが起こった、したがってXがYの原因である、と人は考える。これは薬物療法に関するEBMの世界では「三た論法」とも呼ばれる認知バイアスである。ある病気に対して、ある薬を「使った」ら「治った」、だからこの薬は「効いた」と呼ぶものである。

次の図を見て欲しい。単純な場合分けの表である。XをしたらYが起こったというのは図のセルaだけに注目している。aを一度観察しただけで、Xは効くと考えてしまっているわけである。Xがない場合はYがないかどうか、つまりセルdも観察すべきだろう。もし、自然経過やプラセボでもYが起こる場合にはcが観察できる可能性もある。だからcとdも同時に確認しなければ、Xは効くと判断するのは早すぎる。繰り返し観察が可能なら、つまりXを2回以上試すことができる場合なら、2回目、3回目のXでbがどうなっているかも観察すべきなのはもちろんだ。3回やって1回目はaだったが、2,3回目はbならば、誰も「XがYに効いた」とは言わないだろう。

しかし、人間は因果関係の判断について悲しいほどナイーブに考えるようにできている。一度、セルaを観察しただけで「XがYに効いた」と考えるのが人の普通の癖である。この認知バイアスにはわざわざセルa方略という名前がついている4)。報告者がセルaだけ考えているようなら、c,dの場合も取り上げてどうか?と尋ねてみるのが指導者の仕事になる。

 

図 随伴性ダイアグラム

クライエントの変化Y
あり なし
介入X あり a b
なし c d

 

アセスメントにはこだわらず、アセスメントにこだわっている人には配慮する

もう一つの人の癖が、何かがあればその原因を知りたくなることだ。原因と問題の間には常に一方向性の関係があるように考えてしまう。そして心の問題の場合、原因とされるものの大半がクライエントの心の状態である。その心の状態の原因になったものは、また深層の心の状態であり、子供の頃の心の状態であり、さらには親の心の状態であった、さらに祖父母の心の状態まで・・・。キリがないが心の状態を評価するアセスメント、言説(ディスコース)は毎日、新しく生成されている。症例検討会をやっていると、誰か1人ぐらいは「最近、こういう性格特性Zが提唱されています。このクライエントにはぴったり」と情報提供してくれる人がいる。

興味関心をもって聞き、スライドに出し、検索し、Wikipediaなどの解説を乗せる。場合によっては心理学事典・精神医学事典、医中誌、PsychINFOなども検索する。あっという間に参加者がもつZに関する知識が最初に言い出した1人よりも豊富になる。

・・・

ここまでは言わば「『NAKNAKという症例検討会』に関する検討会」だった。記憶に関する問題から症例検討会の話題をスタートした。原井が主催した検討会に関して村井が報告し、それに対して原井がまたコメントしたわけである。

最後にNAKNAKで取り上げた村井の事例を提示しよう。この連載のタイトルは「ケースの見方」である。3回の連載の最後をタイトルにふさわしいものにする。

村井の事例

ケース:Aさん 20台女性 大学生 診断 不安障害

1)   X年1月 NAKNAK1回目

  • X-2年、精神科クリニック受診
  • 初診時は両親も同伴していた。受診そのものに「大袈裟だ」と反対しており、医師に対しても「薬は出さないでください」と言っていた。
  • 主訴は電車に乗れず、そのため休学している。早く復学して、就活もできるようになりたい、ということだった。
  • その後、電車に乗れるようになり、X-1年の4月に復学した。
  • 復学後も、家族や就職の問題についてカウンセリングの継続を希望したため、断続的にセッションを続けていた。
  • 現在の主訴は、毎日、寝る時に胸がつかえ「死にそう」だと感じることであった。このような症状は以前からあったが、大学卒業を前にして「治した方がいいのかなと思った」と言う。

<検討事項>

寝る前の胸のつかえについて訴えがあったため、日常生活活動表の記入を指示した。

2週間後、書いてきたものを一緒に見直すと、「死にそう、とは思うが、また寝ることができている」と言い、記入された2週間では主訴は特に大きな問題になっていなかった。一方、月に1回くらい、夜中にじっとしていられなくて台所に行って何かを食べることがあると言う。しかし、それを語るクライエントの様子はさほど困ったようには見えない。どう判断し、対応したらいいのか知りたい。

<指導者のコメント>

  • 「一人寝恐怖」転換性障害の可能性がある:人間関係上の刺激に支配されて症状が起こる。
  • 安定した治療関係があり、本人はこのままゆっくりのペースですすめたいと思っている。
  • これまでのサマライズを行い、今後について本人に選択してもらうようにするのはどうだろうか?
  • コミットメントについての解説:自由な選択が許される状況下で自分が選んだ目標のために、自分の現在の自由を拘束すること。例えばある会社に就職すると内定を受諾したら(コミットしたら)、もう転職の自由はない。

2)   X年2月 NAKNAK2回目

サマライズを行い、今後についてどうしたいか尋ねたところ、本人から次のような目標が語られ、カウンセリング終結について話し合うことができた。

「以前は親のブランド志向をバカにしていたけれど、結局自分も有名企業に勤めている彼と結婚したいという期待があって、親と同じだったとわかった。今もブランド志向はあるが、それより今、子どもに勉強を教えることが楽しくて、自分はこういう仕事が向いていることに気づいた。親は反対するかもしれないが、今のバイト先の小さな学習塾で講師の仕事を続けたい。」「時々しんどい日はあるが、まあなんとかやっていけそう。」

<指導者のコメント>

  • 完全に治すのではなく2割くらい残す感じ。

<村井の気づき>

コミットメントのイメージについて、「目標」を目指すという単にポジティブなイメージしかなかったが、決断して選び取るという厳しい側面と、それをクライエントにしてもらうというセラピストの役割があることを痛感した。また、「完全に治りたい」というクライエントと同様の「完全に治す」という考えが頭のどこかにあったことを体験的に理解できたケースだった。

さいごに

最もクライエントをよく知っているのは報告者である

症例検討会はすべからく過去の記憶に頼って行われる。眼の前にクライエントもいるような、その場でのコーチング、いわゆるオン・ザ・ジョブ・トレーニングなら、指導者がその場でコーチすることができるだろう。しかし、それを対人援助職の現場で実行できているのは、ごく一部の職場に限られるだろう。症例報告者は治療者である。治療者が一番患者をよく知っている。

行動経済学で知られるAmos Tverskyが語ったことにこんな言葉がある。

A part of good science is to see what everyone else can see but think what no one else has ever said.

(良い科学とは、すべての人に見えるものを見ながら、他の誰も言っていないことを考えることだ) 6)

症例検討会で原井が果たす役割についても同じことが言える。指導者にだけ見えるものなど存在しない。指導者が知ろうとして質問することすべては報告者が見ており、見つけていることだ。指導者にできることは報告者には見えているのに、報告者がまだ言っていないことを考えることだけだ。

「説明が足りない、見落としがある」と報告者を責めたとしよう。ストレスを与えて出てくるものはストレス対処行動である。動物行動学に詳しい人間なら、Displacement activity(転位行動)を思いつくだろう。頭を掻いたり、唇を噛んだり、イライラしたりする行動だ。精神分析に詳しい人間なら、防衛機制を考えるだろう。否認や知性化、合理化、上下方向の社会的比較を思い浮かべるだろう。日本語としてはあまり知られていないが、Undoing(打ち消し)という防衛機制もある。何か起きたことをさもなかったことにようにして振る舞うことである。Tverskyの言葉を取り上げた本の原題は“Undoing Project”である。症例検討会で失敗から学べというよく言う。しかし、失敗を打ち消そうというUndoingにはどうやったら勝てるのだろうか?

役に立つ言説(ディスコース)とは?

この3回の連載で合計4人の筆者が登場した。筆者同士の間では双方向のやり取りがあり、その中で原井自身が学んだことが多かった。双方向のやり取りが言葉に意味を与える。一方、読者との間には一方向である。ケースの見方のシリーズの中では異色なものを書いたつもりだし、今までに数多くの文章を書いてきた私としても今回のシリーズでは過去の文章をコピペしたものは1つもない。どのような考えをもたれただろうか?もしよければ編集部か筆者までメールを送って頂きたい。原井はhharai@cup.comである。

謝辞

NAKNAKを始める時から協力してくれたのは当時の同僚、現在はBTCセンター代表である岡嶋美代心理士である。最初の招待メールを書いたのも彼女である。彼女の協力がなければ、NAKNAKを続けることはできなった。感謝している。

参考文献

1)        文部科学省, 厚生労働省. 公認心理師法第7条第1号及び第2号に規定する公認心理師と なるために必要な科目の確認について. 2017, http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/0000179118.pdf, (参照 2018-04-03).

2)        村山正治, 中田行重. 新しい事例検討法PCAGIP入門 : パーソン・センタード・アプローチの視点から. 大阪, 創元社, 2012.

3)        原井宏明. 対人援助職のための認知・行動療法―マニュアルから抜けだしたい臨床家の道具箱. 東京, 金剛出版, 2010.

4)        嶋崎恒雄. 随伴性判断の獲得過程に対する連合学習モデルの適用の妥当性に関して. The Japanese Journal of Psychology. vol. 70, no. 5, p. 409–416.1999, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/70/5/70_5_409/_pdf, (参照 2018-02-11).

5)        早川歩. 心理臨床家訓練生の ケースカンファレンス体験に関する研究. お茶の水女子大学心理臨床相談センター紀要. vol. 18, p. 57–66.2016,

6)        Lewis M., Michael. かくて行動経済学は生まれり 原題The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds. 東京, 文芸春秋, 2017.

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