認知行動療法のパフォーマンス

日本認知・行動療法学会第41回大会 2015年10月2日(金)~4日(日)

自主企画シンポジウム「開業カウンセリングルームにおける、認知行動療法のアウトカム。認知行動療法のパフォーマンス」

指定討論者 草稿

EBMとは何か

EBMも人口に膾炙するようになった。「私はエビデンスによる裏付けがない治療法をやっています」と大きな声で言うことは恥ずかしいと思うべきだ,というのが今の御時世である。たしかに「ホメオパシーが良い」「オルゴン療法は凄い」とメジャーな学会で言い出したら,変人扱いだろう。
では「私がやっている治療法にはエビデンスによる裏付けがあります」はどうだろう?
自慢になるのだろうか?
治療法にはエビデンスの裏付けがあるのだろうが,“私”には裏付けがあるのかどうかわからない。「私の”フェラーリ”は300km/h以上出せる」と言っても,“私”に出せるかどうかはわからないのと同じである。
根拠に基づいた医療とは「良心的に明確に分別を持って、最新最良の医学知見を用いる」という医療のあり方をさす。これは医療者に向けられた言葉である。患者にとってはどうだろう?
患者の立場からすれば医療者がEBMをしているかどうかはどうでも良く,その医療者が自分にとって役立つかどうかが知りたい情報である。「良心的に明確に分別を持って、最新最良の医学知見を用いて」医療者選びをしたいはずである。一方,症状に困っている患者にとっては,「良心的に明確に分別を持って」判断するのは難しいことだ。そして,その判断能力があったとしても,患者に必要な最新最良の医学知見とは米国国立衛生研究所が行ったRCTの結果ではなく,受診候補に入っている医療者の最新の治療成績だろう。
車に喩えて言えば,フェラーリのスペックではなく,ドライバーのスペックが患者にとって必要な情報である。しかし,実際はどうだろう?
医療者の大半は患者に自分の車のスペックを教えることはできても,自分自身のスペックを教えることはできていないはずだ。それにもかかわらず,自分の知っているエビデンスに基づく治療法を患者に勧めようとする。
私たちのほとんどは髪の毛を切っているはずであるが、どこでいつ切るかどうかの判断はどうやってしているのだろう?
ウォーレン・バフェットはこんな格言を残している「散髪が必要かどうかは床屋に聞いちゃいけない。」

パフォーマンスのサイエンス

戦後,先進国でもっとも医療の成績が上がったのが周産期医療である。
妊婦死亡率でみれば1980年は20.5だったものが1996年には6.0になった。
16年間で1/3になっている。

アトゥール・ガワンデの「医師は最善を尽くしているか」から引用する。

医学研究に携わる医師に、現代医学の進歩はどうやって実現したのかを尋ねて欲しい。
たいていは、エピデンスに基づく医療(EBM) のモデルについて語るだろう。
これは、臨床試験によって正しくテストされ、効果があると証明されていない医療技術は、どんなものであっても実際の臨床では用いてはいけない、という主張である。
臨床試験は、できれば二重盲検化された、ランダム化比較試験であれば理想的である。
しかし、1987年にランダム化比較試験による確かなエビデンスを用いているかどうかについて各医療分野をランクづけしたところ、産科学は最下位になった。
産科医はランダム化比較試験をほとんど行わないし、もし行っても、その結果を大方、無視する。(中略)

一方、産科では、新しい方法について試す価値がありそうに見えたとき、産科医が臨床試験での結果が出るのを待つことはなかった。
先に進んで実際に試してみて、結果がどうなるのか経過を見るようにしていた。
産科学の改善の道は、トヨ夕方式やGE方式と同じ方法であった。迅速に、しかし、常に結果に注意を払い、改善を目指すということである。

産科医療にはアプガースコアもあり、結果はすぐに出る。そのデータを各施設で公開し,比べあうことこそが死亡率の低下という素晴らしい医療の進歩に結びついた。

精神科でも疾患によっては結果をすぐに出せるものもある。アルコール依存症における断酒率は良い例だ。勤労者におけるうつ病患者の復職率も良いだろう。強迫性障害におけるY-BOCSなどアプガースコアに似た標準的な尺度もある。その気になればパフォーマンスを見せ合い,結果を競い合うことは精神科でも可能ではある。

医療の問題

医療の成績を出せば良いとは皆が考えるだろう。でも,今度は評価の対象を決めることが難しい。

精神医療が扱う範囲はこの30年間でも大きく広がった。小児から老人まで,高所恐怖の患者から触法精神障害者まで,産科医療のようにアプガースコア一つで評価を統一できるとは誰も思わない。

さらにいえば,精神医療の仕事は“治すこと”だけではない。というよりも精神医療が始まってから今までの間を振りかえると,「治す」というのはごく最近の変化であり,治らないことを前提に,福祉的に支えることがメインの仕事だったことがわかる。今でも多くの精神医療機関にとっては“治す”ことよりも,障害の受容とリハビリーテーションの方がメインの仕事である。

統合失調症や双極性障害,発達障害,認知症,依存症,境界性パーソナリティー障害など精神医療のメインストリームである疾患を振り返って欲しい。「治せる」,「受診も薬も止められる」,とは誰も言わないはずだ。

精神医療は障害者福祉と一体化している。自立支援医療(精神通院医療)の診断書を書き,障害者手帳が取れるようにし,デイケアなどでリハビリをし,A型事業所などで就労支援をし,さらに障害年金で生活が支えられるようにすることも必要だ。これをメインの仕事にしている医療機関も多いはずだ。

改めて患者の側に立ってみよう。場合によっては患者自身が福祉サービスを求めていることがある。たとえば,ある患者が医療機関を選ぶとき,「障害年金を一番もらいやすいところが良い」と考えていたとしたら,どうだろうか?
私たちはそのデータを集めて公表すべきだろうか?
患者からのニードは確かに高いはずだし,改めて評価方法を開発する必要もない。しかし,医療者側・行政側はこのようなデータの公表を歓迎するだろうか?

筆者としては,行動療法を実践し,”治せる”治療法を実施していると自称するものは,治療法ではなく,自分のスペックを系統的に集め,公開すべきだと思う。

一方,それが社会に与える影響も同時に考えておく必要もある。そして,どのような影響が医療者側にとっても,患者側にとっても望ましいことなのかも決めておく必要があるだろう。